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ティラノサウルスによろしく

昨日は重陽!

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昨日は重陽!

日本に五節句あれど、重陽節なるもの影薄く、忘れ去られて久しくありて、部屋の隅でしくしく泣いたり泣かなかったり、カワイソス。



菊という花がある。
周敦颐が言うところの、花の中の隠遁者たる菊は、日本では皇室の象徴として用いられ、パスポートの表紙を飾っている。
その菊の花と、もっとも縁があるのがこの重陽という日で、旧暦の9月9日(つまり今日、あ、もう昨日なんですねー《しょんぼり》)に祝う。
中国では春秋戦国時代から朝廷で祝っていた記録が見られ、二千年以上の歴史があるようである。
日本では平安時代から朝廷でのお祝いごととして行われており、それが庶民のあいだに拡がり、江戸時代には五節句として、国民の祝日として選定された。
以降まあ色々あって(参照)、なんやかんやのてんやわんやなのでした。

さて、で、その重陽は何をするのか。
下記の民間伝承が、重陽に何するかを、けっこういい感じにまとめてくれています。

東漢(25—230年)の時代、費長房という男がいた。彼は神通力を持ち、雨を呼び風を呼び、神を遣わし、鬼を捕らえるといわれていた。汝南の地に桓景という青年がいた。桓景は費長房のうわさを聞き、山を渡り河を越えて費長房を探し出し弟子入りを申し出た。費長房は桓景の決心が堅いことを見て取り、弟子として引き受けると技を教えた。
ある日、費長房は慎重な面持ちで桓景にこう言った。「9月9日におまえの一家に災難が降り掛かる。早いうちに準備をしておけ!」 
これを聞いた桓景はすっかり取り乱し、費長房に向かって何度も頭を下げ、災難を避ける方法を教えてほしいと頼んだ。費長房はしばらく考えた後で言った。「よろしい。おまえは長年、私に付いて学んでいたのだから教えてやろう。赤い布で袋を作り、その中に茱萸を入れ、それを身に付けなさい。それから菊の花を浸した菊花酒を持って家族全員で高いところに登り、そこでその酒を飲みなさい。そうすればおまえの一家は災難から逃れられるだろう」 
桓景は師匠の費長房に言われた通り、9月9日の早朝に一家を連れて付近の山に登った。全員が首から茱萸を入れた赤い袋を下げ、山の上で菊花酒を飲んだ。 
その日は何ごともなく過ぎ、日が沈み夜になり、桓景と一家は家に戻って驚いた。牛も羊も鶏も犬も、家畜という家畜は皆死んでいるではないか。桓景と一家は、こうやって災難を逃れた。このときから「重九登高、效桓景之避災(重陽節に高い所に登り、桓景は災難から逃れた)」と語り継がれるようになった。 重陽節の伝承に必ず登場する茱萸は、その香りが虫よけに効果があり、昔から端午節に魔よけとして戸口に掛けたショウブを重陽節には茱萸に換えてつるしたという。 

ここで一言だけ解説を加えると、陰陽道において偶数は陰数で、奇数は陽数ってやつでして、で、これが陽数が好くて、陰数が悪いってわけじゃなくて、つまりそのバランスが大切なわけなんですが、それで陰数だったり陽数が重なる日は不吉とされていて、その陽数の最大数である九が重なる日、つまり九月九日はもっとも不吉されていたんですね。で、その不吉を忌み避けるために、上記のようなことをしていたと。
その後、陽数の連なりを吉祥と見做す風潮になっていき、
お祝い事の一つとして変化していくことになります。
山(高いところ)に登って秋の自然を見るようになり、菊の品評会が行われたり、菊酒を飲み、菊の花を混ぜたケーキを食ったりするようになります。
ここで、古人の作品から、昔の人が重陽をどう過ごしていたか、観察してみましょう。

<九日與鐘繇書>
歳往月來、忽復九月九日。九爲陽數、而日月竝應。
俗嘉其名、以爲宜于長久、故以享宴高會。
是月律中無射、言群木庶草、無有射地而生。
至于芳菊、紛然獨榮、非夫含乾坤之純和、
體芬芳之淑氣、孰能如比。
故屈平悲冉冉之將老、思飧秋菊之落英、
輔體延年、莫斯之貴。謹奉一束、以助彭祖之術。
<九日と鐘繇の書>
一年は過ぎ去り月は来る、たちまちまた九月九日が来た。
九は陽数なので、まさに月と日が並ぶ。
世の習いとしてその名を善しとし長久を願って、盛大な酒宴を賜る。
月律は無射に当たり、木々は群れ草は肥え、
地を突き出て無から有が生じる事を言う。
深い菊の芳香を紛然と一人楽しむのではない。豊かな天地の調和である、
菊の良い香りと麗しい気配を受け入れ、いずれも楽しんで安らいで欲しい。
ゆえに屈原は、老いが早く進むことを悲しみ、夕餉に菊の花びらを食して、
身も心も高潔にしたのである。
体を補って長生きをして欲しいと、願わずにいられない。
謹んで菊一束を奉じる、彭祖の術の助けとして欲しい。
《注》
月律→音調を陰陽の十二律に分け、陰暦の一年十二ヶ月に配したもの。 まあ、ここらへんは、「月日は百代の過客にして……」みてえな意味。たぶん。
屈平→屈原。昔のすげえ詩人。ちなみに端午の節句にちまきを食うのは、国を憂いて河に身を投げたこの人のために、農民が供えたが始まり。上の記載は『楚辞』<離騒>第五段にある。
彭祖→堯、夏、殷と八百年程長生きしたらしい人。

上の散文は、曹操の息子である曹丕が臣下の鐘繇というじーさんに送った手紙です。
で、この手紙からわかるのが、重陽は長寿祈願の日で、つまり敬老の日みたいな感じなわけでもあるんですが、これは『九』の中国読みと『久』の読みが一緒だから、そこから来ているらしいっす。
さあ、僕ももう疲れてきたぞ。
重陽に纏わる詩や散文は、いいものが多いので、どんどん紹介してやろうと思ったのですが、もう目が痛いので、このあたりしておきます。
重陽は今でこそあまり祝われなくなったと言えども、やってきた行事の影響は、まだまだ我々の生活の中に残っているのではないでしょうか。
前にも書いたけど、たかおにって、これ起源じゃねえのかなー
おしまい




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