旅とはなんだろうか。
別に、旅なんて気取った一文字じゃなくて、旅行とでも行楽とでも言ってもいいのだけれど。
どうにも僕は、旅に出てみてはじめて、自分が外出することが好きでないことに気付く。
そして、そういうことをずっと、馬鹿みたいに繰り返している。
旅に出るきっかけは、いろいろとある。
家族や友人に誘われたり、学業や仕事のために強制されたり、家で呆けていることに堪らなくなって飛び出したり。
どんな理由であれ、僕が旅に出て得るものと言えば、厄介な面倒と気苦労ばかりだ。
食事、睡眠、早起き、乗り遅れ、乗り過ごし、渋滞、人混み、出会い、気遣い、付き合い、事故、盗難、病気、怪我。
日に日に疲れが溜まり、精神はキリキリと張り詰め、空元気を奮おうとすれば、すぐに胃と尻の穴にきて、キャベジンとポラリノールのお世話になる。
旅なんてまったく、自殺志願者の修験道だ。
家にこもれば、変わらぬ環境が、穏やかな平安をあたえてくれるというのに。
なぜ、死にたいわけでも、霊験を感得したいわけでもないのに、旅に出るのだ。
このブログを更新するためである。
サンキュー、僕のサービス精神。
というわけで
羊の都市、広州に行って、年越ししてきた。
広東省広州市。
五匹の羊に乗った仙人が豊作を齎した伝説から、羊城とも称されるこの土地は、珠江に面し、貿易で栄えたるところ。
そして、今回の旅の目的地だ。
旅のあらましは以下の通り。
同居人が中国人の友達の家で旧正月を過ごしたがりそれに付き添うことになった。
二週間。宿泊はすべて友達の家。メインテーマは、中国の一般家庭に混ざって一緒年越し!中国の風俗、文化をよく知ろう!
以上。
一緒に行く同居人をCと言い、中国人の友達をLと言う。
Cは同級生の韓国人で、消化不良を起こしやすく、オナラが酷く臭い。ちんこ出しながら、ヘラヘラと屁をこく28歳を見て、どうしてこいつと同居人になったかを考えるが、分からない。そうだ、精神修行の一環だった。人生は辛く苦しい。それの備えておかなければならないという、転ばぬ先の杖、肥溜めに落ちる前の顔面放屁だ。
Lとはバトミントンを通して知り合った。学校の体育館で、奇声を発しながら羽を打ち上げる外国人を見て、向こうから物珍しげに話しかけてきたのである。それから、互いに誘い合ってバトミントンするようになり、1年半ほどになる。
Lはすでに、自分の家に帰っているので、僕らは後から向かう手はずだ。
冬休みに入ってから、バイト三昧で、休みの日はCが持ってきたXBOXをやって、3D酔いするということを繰り返す日々なので、今回の旅行には少し期待しているところがある。
まったく、性懲りも無く。
朝、6時半の飛行機のために、3時半に起きる。簡易味噌汁をお湯に溶かして飲んで、同居人のパンを一欠けらもらって食べる。
眠いのでCと互いに言葉少なく、タクシーで空港へ。北京の気温はマイナス2度、広州の気温は20度という寒暖差の激しさのわけだが、ドアtoドアの現代っ子精神を用い、薄着で出立。
いつも帰国のために使う空港とは違う、国内線のみの北京郊外にある空港は、汚くはないけど、清潔感のない感じ。どこか競馬場思い出す。そういえば、ステークスどうだったのでしょうか。
三時間のフライトを終え、広州に着く。なんとく、南国特有の蒸すような暑さを覚悟してたのだが、そんなことはなく過ごしやすい気温だ。まあ、摂氏20度だもんな。空気は、北京が乾燥しているのに対して、広州はだいぶ湿り気がある。まあ、海に面してるもんな。
空港には、LとLのおじさんが迎えに来てくれていた。
挨拶をする。
僕はもうこの時点で、旅に出たことを後悔し始めている。
どうにも慣れないのだ。
他人の迷惑になるなと母から言われ続けて四半世紀、それはもう呪いであって、どうして、正月前の、1年の計は元旦にあるとも言われる、新しい年を迎えるこの大事な時期に、もう子どもとは言えない二十歳をとっくに過ぎた、礼儀もろくに知らない外国人を、親戚の子どもの友達だからという理由で、わざわざ出迎えてやられねばならないのだ。
そういう感情が刹那、胸の内を通り過ぎる。
それはつまり、母から幼き頃哀しき呪いを受けて育った青年の、考え過ぎなわけだが、僕はもう、嫌な感じを必死に笑顔で押し殺して、ニンハオ、と挨拶している。
おじさんはもちろん、厳しい顔をするでもなく、笑顔を過剰に振りまくでもなく、なんでもないという風に、僕たちから荷物を受け取って、ひょいひょいと車に載せていった。
僕はそれから、そわそわと申し訳なさそうに車に乗り込み、Cは当然というように、Lと談笑しながら堂々と乗り込む。
Cは言い方が悪いが、成金の息子で、あまり遠慮がない。それで性格はお調子者でいて、気分屋である。つまり、ムカつく奴なのだ。どうしてこんな奴と同居人になったのか考えてみるが、分からない。そうだ、精神修行の一環だった。
車を30分ほど走らせ、団地のような区画に入る。そこのマンションの14階がLの家だそうだ。
Lのお父さんとお母さんは、仕事場に出かけていていなかった。お父さんは町の小さな診療所のお医者さんで、お母さんはそれのお手伝いをしているらしい。偉いことである。
おじさんに荷物を置いたらすぐ車に戻るように言われていたので、また1階に戻り、車に乗り込む。お昼ごはんをもてなしてくれるそうだ。そこでLの父母とも合流するらしい。Cはそれを聞いて、機内食がクソ不味くて一口も食ってないから腹減ったよ、と僕の横で漏らす。機内食を全部残さず食べていた僕は、それを無視した。
食事は、おいしかった。南の料理、特に僕の食べた料理は客家料理と言うのだけれど、北京の料理に比べて、味が濃くなく、脂っこくない。日本人向けの味付けなのである。
Lのお父さんは、厳しそうなバカボンのパパって感じで、お母さんは優しそうなあたしんちの母さんって感じだ。中国の昔がたきの典型的な父母である。昼間っから、60度もある白酒を勧められ、僕もCも断れずに飲んだ。お父さんはまだ午後が診療があるので、勧めるだけだ。メシもばんばん勧められ食わされた。おじさんおばさん必殺の飲め食え攻撃である。これには参る。これが二週間……、道のりは長く険しそうだ。
それから一週間は、普通に観光したり、Lの友達に会って酒を飲んだり、近くの体育館でバトミントンしたりした。
その間、Cは歩けば疲れたと言い、観光地を観に行けばどこも変わらないと言い、博物館に行けば興味がないと言った。
そして何度も体調をくずし、家で一日中休みたがり、バトミントンだけは一生懸命やった。こいつは韓国に帰ってもコーチをつけて練習したりして、僕より断然にバトミントンがうまいのである。
しかし、まったく、お前は何しに旅行に来たんだ。観光地も文化物も歴史も興味がなく、やることと言えば一日中家にいるか、繁華街で買い物、それかバトミントン。北京で過ごしている時間と何が違うんだ。お前のそのひ弱なからだは、なんとかならないのか。その貧弱な肉体のせいで、何度旅程に支障をきたしたか。まったく、お前は恥を知れ!このでくのぼう!ばーか!ばーか!お前のおならはマジで腐った卵より臭いんだよ!いい加減にしろ、この病弱、胃弱王子!卵爆弾野郎!玉子王子!
と僕は、ベッドで深刻そうに目をつぶっているCに、激励を投げかけた。
Cは震える声で、お前覚えていろ、お前が病気になった時には覚えていろよ、と返してくるので、俺の肉体は最強だから病気なんかなんねよー、と吐き棄てた。
なんやかんや、僕らの仲はいい方なのかもしれない。
たまに、殺したいぐらいムカつくだけで。
さて、新年が二日後に迫り、Lのお父さんも診療所を閉め、年越しの準備を始める。
お父さんは、ここらへんに集まる親戚の内で、一番の年長者だそうで、大晦日には親戚一同この家に集まって、みんなで飲み食いして過ごすそうだ。
お前とお酒を飲むが楽しみだ、と僕に笑いながら言った。一週間も経つが、仕事が忙しく、まだ一度も杯を交わす機会がなかったのである。
僕はこれまでの飲め食え攻撃を思い出し、若干の気後れを覚えながらも、僕も楽しみですと答えておいた。
お酒なんて、飲んじまえば万事解決だもんな!
そして次の日、おおつごもり、年越しの日。
僕は熱を出した。
やべえな、と思ったのよ朝。なんか違うな。気持ち悪いな。なんだかぼーっとして、ムカムカするなって。
昨日、バトミントンでハッスルし過ぎたのがいけなかったのか。その後、冷たい水を浴びるほど飲んだのがいけなかったのか。
わからん。わからんが、これはまずい。
Lのお母さんはもう掃除を終わらせて、今晩の料理の準備を始めているし、お父さんは外に買い物に出ていったそうだし、夕方からは親戚が続々集まってくるようだ。それまで僕は、CとLとで、広州の有名な花市をそれまで見てまわる予定だ。
まずい。まずいな。最悪だ。
なにが最悪かって、Cの調子が今日はすこぶる良好らしく、半袖半ズボンで鼻歌なんて歌っていることだ。
くそう、あの野郎、いちいちムカつく野郎だ。
僕は、この困難を乗り切ってやることにした。
お父さんと酒を飲む約束もあるし、親戚のみんなに僕を紹介したいと言っていたLの面子のためでもある。そして何より、あのクソ野郎に弱みを見せるわけにはいかない。考えるだけで、あいつの得意気なムカつく顔が目に浮かぶ。
断断乎阻止せねば。
そうして、僕ら花市に向かい、歩き始めて五分もしない内に、広州の空いっぱいにゲロをぶちまけた。
今思い返してみても、それは見事もんだった。
間違いなく人生NO.1の嘔吐だ。
まず一口サイズのゲロが出て、それを口内に押し止めたまま飲み込み、また再びせり上がってきたそれを塞ぎ止めることができず、漏れ、零れ、噴出し、溢れた。
それから僕は、水も何も受け付けず、すべてを吐き続け、吐くものがなくなれば胃液を押し出し続け、胃の痙攣に付随する喉の嗚咽は絶え間なく鳴り響く。
あまりの吐きっぷりに、僕は笑ちゃったし、CもLもつられて笑っていた。
ただ周囲の人たちだけは、すげえどん引きしていたけれど。
家に帰って、Lはお父さんに事情を話し、閉めた診療所を開けて僕を診てくれた。
胃が何も受け付けないと知ると、薬を処方するだけでなく、点滴まで打ってくれた。三本も。打ち終わるまで、二時間近くもかかった。Lとお父さんは、その間ずっと傍にいてくれたようだった。僕は途中で寝てしまったので、よくわからない。
まったく、最悪の大晦日である。
100%、僕のせいで。
年越しの夕食会は、滞りなく開くことができたようで、いっぱい食わされて飲まされて大変だったよと、Cが次の日僕に伝えてくれた。
それから、にんまりと口を歪ませて、
「Lのお父さん一緒にお酒を飲めるのを楽しみにしていたのに、ちょっと失望したよって言ってたよ。お前、本当最低だな。まあ韓中友好はうまくいったけど、日中友好は相成らずってことで。じゃ、これから、Lの家族と親戚とで新年のお寺参りに行ってくるから」
と楽しそうに言ってから、ベッドでくたばっている僕を置いて部屋から出て行った。
外では、新年を祝う爆竹が、けたたましく鳴り響いている。
一人部屋に残った僕は、両の手の平をじっと見て、それで顔を覆い、嗚呼、泣いてやろうかしらなんて、慰める人もいないのに独り言を吐くと、突如爆竹が鳴り止んで、不意の訪れる静けさに、自分の存在の居た堪れなさを感じる。
まったく、これだから旅ってやつは。