ブログを書こう。→書きたいもののイメージが固まるまでネットサーフィンしよう。→地獄。
そういうのをなんだろう、悪循環とでも呼べばいいのかな?
もう俺は全部、全部の行動を勢いに、任せられたらいいのに。
そうだったらいいのに。
もう右から左の端まで全部その刹那に決定された衝動であればいいのに。
あるのだ。
もうどうなっても知らんぞー!!
様々な情報が交錯し、入り乱れ、脳内に蔓延って、死んだ。そういう情報社会の弊害を享受すること50年、ようやく殺意が芽生えた。
しかし動機がなかった。心理的証拠を求めた。
生活上で何が発生し、どう転じたのかを書けばいいのか。そこから何を考え、どのように教訓を得るべきか書けばいいのか。
昔話をしよう。
むかしむかしあるところ、おじいちゃんとおばあちゃんと狸と兎と雀と幽霊と鬼がいて、隣に性格が歪んでいるために孤独で貧乏になってしまったのか、孤独で貧乏であったがために性格が醜く歪んでしまったのかは定かではない意地の悪いじいさんが住んでいたりして、川からは桃が流れたり、竹は光りあやしがりてよりてみるに三寸ばかりなるひといとうつくしゅうていたり、どんぶらこっこどんぶらっこっこ、狸はばあさん肉を用いてじいさんのために鍋をこしらえたりして、鬼は成敗され、雀の舌は切られ、兎は給水ポイントでまさかの給水に失敗、優勝確実と思われていたが格下の亀に負けるという悲劇が起き、兎はその腹いせに狸の背負っていた薪に火を点けたり、泥舟に乗せて沈めたりした、そんなご時勢、キツネは言った。「コンと鳴く。俺はコンコンと鳴くよ。そういう思いがある。実際のところ俺はこうやって鳴けばいいんだよという定まった形式を持っているわけではない。鳴く必要がないじゃないかと思うことさえある。しかし犬はワンと鳴き、猫はニャンと鳴くように、俺はコンと鳴く。そうしたいという思いがある。そうすることによって、俺は俺であることの証明を姿を現さないまま、草木の陰からや仄暗い穴の中から主張することができる。俺は俺の鳴き声を手に入れることによって、俺のこの面倒な消極性をはじめて活かすことができるはずなんだ。姿を現してしまえば銃に追われるし、物陰から多くを語れば気味が悪い。そのような環境下での俺のすべきことはコンと鳴くことだ。その鳴き声は自分で発明したものではなく、道端でたまたま拾ったようなものでもなくて、与えられたものだ。俺が俺であるためにはかくの如く鳴くべしと押し付けられたものだ。それでも俺はコンと鳴くことを良しとする。与えられたものは、容易で簡単で手軽く、考える必要のないものだ。その特権を利用し、俺はコンと鳴こう。世界がキツネ一色になる日まで。」
その時、一発の銃声が森中にこだまし、三千の鴉が一斉に飛び立って、太陽は沈み、西から東にかけて空はみんな真っ赤だ。